L7が生まれたのは85年。ドニータ・スパークス(vo、g)とスージー・ガードナー(g、vo)がLAで出会い、意気投合してスタートする。ドニータが考案したバンド名のL7は、“square”の隠語で新文化を解さない頭の硬さを揶揄した言葉だ。スージーはアンダーグラウンドのLAパンク・シーンの人脈を持ち、BLACK FLAGが84年に出した4作目の『Slip It In』のアルバム・タイトル曲でポップなバッキング・ヴォーカルも務めていた。
リズム隊はなかなか決まらなかったが、PANDORASのオーディションに落ちるもHOLE結成前のコートニー・ラヴとのバンド経験があり、L7のライヴの常連だったジェニファー・フィンチ(b、vo)が加入。男性ドラマーもL7の一員になって87年にレコーディングを行ない、翌年にアルバム『L7』でレコード・デビューを果たす。
『L7』のリリース元はまだ地元のローカル・レーベルだった頃のエピタフで、その主宰者のBAD RELIGIONのブレット・ガーヴィッツがバンドと共同プロデュースした事実に、L7が出てきた場所がLAのパンク・シーンだったことが表れている。サンクス・リストには元GERMSのドン・ボールズやパンク・プロデューサーのゲーザXの名もクレジット。パンク・ロックとハード・ロックをミックスしたグランジの中でもパンク色の強いスタイルの先駆作でもあり、生々しく混沌とした粗削りの形で豪快な“L7節”を早くも確立。「Let's Rock」という曲名にはL7のシンプルな基本アティテュードが凝縮されている。
ツアー後に男性ドラマーが抜けた88年にディー・プラカス(ds)が加入してクラシック・メンバーの4人が揃い、女性オンリーのバンドならではのケミストリーが生まれてL7の快進撃が始まる。アンダーグラウンド・シーンのコネクションで様々なレーベルのオムニバス盤に参加した後、90年の9月にセカンドの『Smell The Magic』を発表。
その作品を録音した一人のジャック・エンディノが手がけたNIRVANAもシーンに送り出し、当時のグランジ・ロックを象徴したレーベルのサブ・ポップからのリリースだ。
ジャケットに偽り無しのど迫力でL7史上最もハードかつヘヴィなロックンロールを叩きつけ、ふてぶてしくワイルドなL7のイメージはこの作品で決定づけられる。ドニータが歌う曲が多いが、フロントの3人のうち基本的にはメインでソングライティングをしたメンバーがその曲のリード・ヴォーカルをとる体制もでき、コーラスも針が振り切れている。リフで攻めつつも大味に陥らずディテールに凝っている音作りはSTOOGESにも通じる。
基本的に男性原理のハードコアが暴れていた80年代はアンダーグラウンドから女性のロック・バンドが出にくい状況だったが、そういった壁にL7が風穴を空けたと言っても過言ではない。もちろんL7のバンド活動はアカデミックなフェミニズムとは別次元の本能的な行動で、91年の10月にL7らが始めた“ロック・フォー・チョイス”というシリーズ・ベネフィット・ライヴ・イベントもその一環だ。中絶の権利をはじめとする女性問題をテーマにし、第一回目にはNIRVANAやHOLEも参加している。
92年の4月にはサードの『Bricks Are Heavy』をリリース。実質的なメジャー・デビューだが、初期はインディでGERMSやX、FEARらのLAパンク勢を出してきたスラッシュ・レーベルからのリリースというのも必然である。L7と一緒にプロデュースしたのはNIRVANAの『Nevermind』を手掛けたブッチ・ヴィグで、ハードなだけでなく歌メロも大切にしたバランスのいい仕上げでL7の魅力が凝縮されている代表作の一つだ。今回の映画のタイトルでありブラジルのCSSがカヴァーした「Pretend We're Dead」や、ヨーコ・オノの声をサンプリングした曲も収録されている。
波に乗るL7は94年の4月に初来日公演を実現させ、ブレイク直前のHi-STANDARDがサポート・アクトについた恵比寿ギルティでの東京公演は酸欠ライヴだった。同年7月には4作目の『Hungry For Stink』をリリース。RAGE AGAINST MACHINEやMELVINSの注目作を手掛けてまもないGGGarthがL7とプロデュースで関わり、パワー・コードがやや抑え気味ながら米国ビルボードで117位を記録してL7史上最高のチャート・アクションとなる。当時のオルタナティヴ・ロック・シーンを凝縮した米国のフェスティヴァルのロラパルーザにも参加。ジョン・ウォーターズ監督からの要望で同年公開の映画『シリアル・ママ』に架空のバンド役で出演もしている。
ノリノリに見えたL7だが、96年にジェニファーが抜けたためにドニータがベースも弾いてアルバムを録音し、『The Beauty Process: Triple Platinum』として97年の2月に5作目をリリースする。GREEN DAYの『Dookie』を手掛けたロブ・カヴァロや前作に録音とミックスで関わっていたジョー・バレーシが、L7と共同プロデュース。知名度はあってもブレイクできないもどかしさがシニカルなアルバム・タイトルに表れている佳作だ。鉄壁の体制が崩れたがゆえに綱を引き締め、多彩な曲で構成しつつ原点を見つめ直してパンチの効いたパワフルなサウンドに持っていかれる。
元THROWING MUSES~BREEDERSのタニヤ・ドネリー率いるBELLYのゲイル・グリーンウッド(b)が加入してツアーを再開。98年の4月には2度目の日本ツアーも敢行し、その際の大阪公演を含むライヴ盤『Live: Omaha To Osaka』を同年の12月に発表。リリース・レーベルがストーナー・ロック発進基地だったマンズ・ルーインなのも、パンクがかったハードなロックが肝のL7を象徴する。
KISSの前座をしている最中にメジャーのレコード会社から契約を切られるも、99年には6作目の『Slap-Happy』をボング・ロード・レコードからリリース。曲によってヒップホップの音声やエレクトロニカみたいなギターも入る凝った作りの一方、ゆっくりしたしんみりやさしい静かな曲と加速するハード・パンク・ロック・ナンバーで締める。ただこのアルバムもほとんどのベースをドニータが弾いて活動を続けるべく苦闘していたL7だが、バンドの要の一人であるスージーが脱退した2001年にL7は無期限の活動停止を宣言する。
でも今回の映画の制作もきっかけとなり、L7は2015年にクラシック・メンバーで復活。ライヴを重ね、シングル「I Came Back To Bitch」で再レコード・デビューを果たした2018年にはワールド・ツアーも再開している。
ドニータが言うように、L7はハードでヘヴィなロックをやるパンク・ロッカーである。ユーモラスに急所を突いた“ファック・ユー!”アティテュード全開の歌詞に表れているが、カヴァー曲も実に興味深い。RAMONESやDEAD KENNEDYSらの有名どころに加え、SONICS、NERVES、GERMS、FLIPPER、AGENT ORANGE、、Eddie and the SUBTITLESといった、60年代後半から80年代初頭までのUSパンクの流れを深く掘り下げた渋いセレクションに、L7の確かなロックンロール・センスを感じる。と同時に大メジャーでマッチョなGUNS N’ ROSESのカヴァーには、92年の英国のレディング・フェスティヴァルでヤジを飛ばす観客に向けて使用中のタンポンを抜いてステージ上から投げつけたドニータの伝説的な行動に通じる、L7のたくましさを見る。
TEXT BY KAZUHIKO NAMEKAWA